幼少の頃にどう過ごしたかは人の一生において非常に重要ではあります。どんな子供自体を過ごしたか、どんな経験をしたのか、どんな教えがあったのか、どんなことに興味を持ちどんなものに嫌悪しどんなものを愛しどんなものに憧れ、どんなものになろうとしたか。
つまり子供の頃の経験がその後の人生かなり左右しますよってことですが、だからといって子供の頃の経験だけがすべてではもちろんありませんし、子供の頃の思いに良くも悪くも囚われて大人になりゃああまりいい大人とはいえません。
人はどうあれ己の意思で変われるもんですし、親がどうだ子供の頃の経験がなんだ、周りがどうだアイツがああ言っただみんなこうしてるもん僕も私も周りに流されて生きていきますってんなら好きにすればいい話。ですが、自分の意思でこうなりたいって立派なもんがあればさっさとそれを実現してしまえばいいってもんです。
けれど、子供の頃の経験があまりにも強く、また大人になってからの意思が強過ぎ、にもかかわらず精神性に明らかな脆弱性がある。そんなものを抱えて生きていたらそれは常人なんてものとは到底言えず、ゆえに凶行に走るのでしょうか。
人生そのものがドラマ仕立て。そのまま作品一本ありのまま描けそうな生き方をして、そして死を魅せた人物。
日本の文豪、三島由紀夫。
今回は彼について触れたいと思います。
目次
三島由紀夫とは
日本を代表する文豪であり卓越した日本語力で数々の名作を生み出し続けた作家。なにゆえ彼を取り上げたいのかという話ですが、別に僕は私小説好きってわけではありません。むしろ好きではないです。
なのにじゃあなんでこんなノーベル文学賞候補にもなる小説家を取り上げるんだというのは、彼の作品ではなく彼自身に対する興味関心からです。
というわけでなにゆえ彼に惹かれるのか、どうして彼は人々を魅了し続けたのか。そのへんを人物紹介としてあれやこれや綴っていきたいと思います。
三島由紀夫、本名は平岡公威。小説「金閣寺」「豊饒の海」などの作者として世界的に有名な小説家。(彼の作品は世界各国で翻訳されています。ちなみに彼自身、英語を流暢に話すことができました。ドイツ語やフランス語にも精通していたのだとか。)
大正は大正14年の1925年、1月24日生まれ。
現在の東京都新宿区に生まれ、最終学歴は東京大学法学部卒。
父は農商務省の高級官僚、母は有名漢学者の娘、いわゆる「エリート家庭」の出身。
申し分のない経歴ですね。それにしては随分と短命だったようです。
死没は昭和45年の1970年、11月25日。
死没。若干45歳にして、死没。
恵まれた人生の中で、唯一の不幸は病魔だったのでしょうか?
彼の死没理由。
それは、自殺です。
昭和45年の1970年、11月25日。
自衛隊市ヶ谷駐屯地、現在の防衛省本省。
三島由紀夫の結成した民間防衛組織「楯の会」メンバーとともに東部方面総監を人質に取り、憲法改正のため自衛隊にクーデターを要請。
そして。
ヤジを飛ばすばかりでクーデターの要請に応じない自衛隊全員の前で。
彼は、割腹自殺を決行。
なにが彼を駆り立てたのか
ざっと彼の生涯をかいつまんでもあらすじが衝撃的ゆえに、どこから紐解けばいいのか。
その生涯はまんまドラマチックでありドラマチックに描いたゆえの最期だったのではと勘ぐりもするほどです。実際、彼は死に場所を求めていたという話もあります。
作家ゆえに自らの死すら創作的に演出した、という一言で片付けるのは容易いでしょう。
しかし、だとしても、なぜ彼が大演説の末、後世現在まで語り継がれる事件を引き起こしたのか。
なぜ彼がそれほどの作家性を持ち、また特別な存在となりえたのか。
晩年、彼はボディビルや剣道、ボクシングを嗜む屈強な男でした。その彼が、なぜ自殺という選択をしたのか。
実は彼は、生まれ持っての屈強な男ではありませんでした。
むしろ、コンプレックスにまみれた幼少期を送っていたのです。
幼少時の三島由紀夫
先に述べたように、三島由紀夫は、両親ともにステータスのある裕福な新宿ど真ん中の家庭で育ちました。
そこで待っていたのは祖母である夏子の過保護。「2階で子供を育てるのは危ない」といって、1階の自分の部屋に引き取り、実の父母にも授乳以外では会わせなかったそうです。この英才過保護教育が、後の三島の文学性と劣等感をすくすくと育てることになります。
祖母の夏子は三島を外で遊ばせることは一切なく、ままごとや折り紙遊びが中心。三島は、女言葉を使うようになっていたそうです。
晩年、彼が、荒事や、男らしさに強い憧れをもつようになったのは、この経験が強く影響を与えています。
6歳になった三島は、上流家庭の子女のみ入学が許されていた学習院初等科に入学します。しかし、女の子の遊びしか知らず、その上で小柄で病弱。さらには顔色も悪かったという満点で条件が揃い、見事にいじめの対象となった三島。付けられたあだ名は、「アオジロ」でした。
当然のように、三島は自分の容姿にコンプレックスを抱くように。幼少時の経験としては、かなり終わっているスタートを切っています。
豊かな感性が開花させた文学性
しかし、このコンプレックスが彼の才能を開花するきっかけにもなったのやもしれません。
祖母のもとで、彼はひたすら本を読みふけっていました。また、歌舞伎など舞台にも早くから親しんでいたため、コンプレックスや劣等感だけでなく教養も非常に豊かだったのです。わずか6歳にして俳句を詠み、詩を書いたのだとか。
学習院の中等科にあがるころには、あまりに完成度の高い詩を書き、教師の間で「盗作か!?」話題になったほどです。いや褒めてやれよ。全員敵なのでしょうか?
そのいろんな意味で感性が豊かになりまくる経験を通したおかげで、彼の文学性はみるみる養われていき、三島が16歳の時に書き上げた小説は、代表作のひとつとして名高い「花ざかりの森」。
学習院高等科を首席で卒業した三島し、現在の東京大学、東京帝国大学法学部法律学科に入学します。ちなみに推薦で入学しています。
卒業後は大蔵省に務めたものの、作家に専念するため、半年あまりで辞職。そして書き上げたのが、初の長編書き下ろし小説「仮面の告白」です。
これが大絶賛を受け、新進気鋭の作家として世間に認められ、以後はベストセラー作家としての道を歩みます。
消えないコンプレックス
この満たされていないのか満たされまくっているのかどっちなんだというアップダウンの人生を送っていますが、(いやぜんぜん満たされている気はしますが)彼の中のコンプレックスは成功者となってからも消えることはありませんでした。
彼は成人してからも痩せ細った肉体をしており、肩パットの入った背広を着てクラブにいたとき「ガタイがいいから三島さんがどこかに消えてしまったかと思ったわ」と言われてブチギレて帰るほどコンプレックスまみれでした。
ゆえに、ボディビルに傾倒していったのです。並外れた頭脳を持っていても、男らしさがないという苦悩が彼を蝕んでいました。
ちなみにボディビルを始めたきっかけは、週刊誌にあったグラビアページの「誰でもこんな体になれる」という1行のコピーを目にしたからだとか。……頑張ってください!
実際に会ったボディビルのコーチが胸の筋肉を動かして見せたのにはさぞ感動したそうです。「あなたもいつかはこうなる」というコーチの言葉に心躍らせ、意気揚々とボディビルを開始。どんだけ貧弱さに対して劣等感があったのだろうかと思えてきますが、実はこの頃から三島は、死に場所を探していたという話もあるのです。
三島由紀夫と信仰の深かった金髪魔女(…魔人?魔神?)の美輪明宏は、クラブで肩パット入りの背広を着た三島をからかったときの激昂っぷりや、ボディビルに死に際の美しさを求めていた節があると語っています。(…というか三島由紀夫の細い体をディスったのはアナタだったのかよという)
加速する力への傾倒
そして彼はどんどんパワーに傾倒していくことになります。
肉体だけではなく、自衛隊へ体験入隊。そしてさらには私設軍隊「楯の会」まで結成します。とはいえ武器も持たない名ばかりの軍隊を、メディアはオモチャの兵隊だとバカにしました。
それでも三島は右翼的な政治思想に偏っていき、その結果が市ヶ谷駐屯地でのクーデターの呼びかけと割腹につながっています。
強烈なコンプレックスという原動力
少年時代からの強烈な肉体的劣等感は、彼を象徴するようなものです。自分の肉体の弱さを好ましく思わなかった彼は、ボディビル、剣道、ボクシング、居合などスポーツや武道に異常にのめりこみ、163㎝の小柄な身体とは相反する筋骨隆々とした肉体を手に入れたのです。
そしてコンプレックスは自信へと変わり、映画スターとしてヤクザの2代目として主演まで務めます。
彼が異様なまでに頭がよく、そして異様なまでに男らしさにコンプレックスを抱き、そして異様なまでに繊細だったことが、彼の最期につながっているように思えてなりません。
現に彼の書く小説は、たくましい身体を持つ人間とは相反する、美しさを徹底的に追求し描写した卓越した日本語力による表現。だれにも真似できないと言わしめたこの美文の正体は、少年時代、祖母の元で女の子のように育てられた際の教養教育はもちろん、読みふけった辞書によるものだといわれています。
さらに、三島の文章が「美しい」「品がある」といわれるもうひとつの理由が、「大正時代の山の手上流階級の言葉遣い」なのだそうです。
古きよき日本の文化や、美しい言葉遣いが失われないようにと、こうした美しい日本語を登場人物達が語り継いだのです。
彼の中で渦巻く強さへの憧れと、元来持ち合わせた繊細さ。
彼は誤診により徴兵を受けられなかったいわれており、虚弱さから戦争にすら参加できないというコンプレックスも追加され、晩年の右翼活動に拍車が掛かったともいわれています。
戦前戦後の日本への思い
文学作品からも垣間見える美へのこだわり。そして肉体を強化したことも、男らしさという屈強さはあれど、肉体美を求めていた側面もあるでしょう。どのようなことに対しても美を求め、ならばその終焉にすらも美を求めることは想像に難くありません。
思いの強さというのは、自身を高みに向かわせることもできれば、破滅へと導くもの。強烈な意思の強さと、強烈な脆弱性を併せ持っていると、通常の人間の範疇では当然なくなるでしょう。それは自然な生物の枠組みからも外れるゆえに、自死という選択を選ぶことができるのかもしれません。
彼の想いの強さは、戦前戦後の日本に対しても向けられていました。三島由紀夫は戦時中の日本に生きていた人ですから、戦前戦後での感覚の違いには敏感でした。
三島の少年時代には、国家の意思と直結した仕方で死ぬということが理不尽ではないという感覚がありました。つまり、戦争によって死ぬということです。
そして民衆の爆発的なエネルギーのない政治は無力である、という、戦後日本の政治体制においても批判的だったの考えられます。戦前の日本、戦時中の、生と死が傍にあり、必死なエネルギーに満ちていた国民と日本国。そのエネルギーが潰えた戦後日本に対して三島は絶望感があったのではないでしょうか。
敗戦国であり、自身も徴兵検査から弾かれて戦争に直接関わることができなかった、自身に対するコンプレックスと国家としてのコンプレックス、つまり敗戦国日本人としてのコンプレックス。
時は学生運動の渦中。全国の中心地であった東大の全共闘と三島は、昭和44年に討論会を行いました。
右翼と左翼という対極ともいえる思想の違いはあれど、戦後社会の現実を否定する立場として彼らは共通しており、そして天皇という二字を持ち出してむしろ同じような立場だとも語りました。三島は天皇という存在にも特別な思いがあり、そこには戦前戦後の日本に対する強い思いが込められています。
聡明であり美意識あふれる感受性に恵まれると同時に、異様な繊細さと虚弱な肉体に対する劣等感は、子供時代の自分と、敗戦した日本国に対して絶望感を生み出し、混沌渦巻く内面からは政治声明として、そして芸術的な美、いわゆる破滅の美を求めて、公の場で大々的な死を選択したのかもしれません。
三島由紀夫という人について
彼が人一倍優れた感覚や頭脳を持っていたことは言うまでもないでしょう。ゆえに人が感じとることのない痛みや辛さを人一倍に感じ、それをエネルギーとして創作や活動の原動力としていた。
彼がもしも体躯に恵まれ屈強な少年時代を過ごしていれば、まずこのような結果にはなっていなかったはずです。並外れた感受性は、自身の弱さに対してだれよりも敏感だったゆえに、過酷な肉体強化や苛烈な思想に走っていったでしょうから。コンプレックスなしで聡明な人物であれば、ここまで話題になる人物でもなかったはず。
しかし、その繊細さや感受性の強さは、どれだけ名作を生み出そうとも、自身を鍛えようとも、死を選択するという結果につながるのであれば、あまり賛同できるものではありません。
男らしさを求めたのであれば、そして敗戦国日本に絶望していたのであれば、だれよりも強さに対する憧憬があったはず。
なのに、最終的に選択したのが自死であれば、それは強さとあまりに相反する最期ではないでしょうか。
死を選択するというのは、どれだけ高尚な理由があれど、結局は自身の脆弱性に敗北したということにほかならないと思います。
自身や国に対して強さを求めたのであれば、死なずにできたことがいくらでもあるはず。むしろ死なない方が、自身が求める強さを実現するために、最後まで諦めずに足掻くことができたはず。
死の真意などわかりません。そして常人では計り知れない苦悩に苛まれていたであろうことも承知の上です。
ですが、非常に聡明で非常に脆弱ゆえに、だれよりも絶望してだれよりも諦めた。それが彼の最期なのだとすれば。
だれよりも強さを求めたのだから。
自分くらいには、勝って欲しかった。