生物の進化に目的なんざ存在しない!「ダーウィンの進化論」とは?

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突然ですが、という前振りをしなければいけないのが当然なほどデカめな問題になります。

生物が今この瞬間まで存在しているのは一体なんでや?という疑問を提起されたとき、なんて答えが思い浮かびますか?

「一体何の話だよ」というのが今回のテーマになってくるのですが、生物が存続するためには様々な要因が必要となります。
温暖な気候や恵まれた食物、空気や潤沢な水域など、母なる地球だからこそ生命が育まれたというのはもちろんあります。
つまりは環境が生命の存続にとって必須の条件ということです。

が。

その環境はただそこにあればいいのではなく、その環境にいかに適合できるかが種の存続、つまり我々人類を含めた動物が過去現在そして未来まで生き残るために必須となります。

というわけで、今回は環境の適合についてのお話。
平たく言えば、進化のお話です。

進化ってどういうこと?

ドシンとした前置きでスタートしました。要は生命というのは前提条件として用意されている環境にいかに適合するか否かで存続の可能性が決定します。

で、この環境への適合がどれだけ行えるのか、どれだけ自身を変化できるのかを、進化といえます。進化といっても某ポケットのモンスターのようにパラメータが上昇して強くなればいいわけではありません。いくら巨大化してパワーが上昇しても、逆に必要となる餌がなくなってしまい死滅した巨大生物はこの地球上にも数多く存在します。

つまり力を得たからといって餌の有無という環境に適合できなければパワーモンスターも存在できないということ。力があっても飯が食えなければ所詮生き物なんですから死にます。機械ですら太陽光や電源がなければ存在できないと理解して人間との戦争においていかに電力を供給するか躍起になるのがSF映画であったりしますから、とにかく自身が存在するために必須となるエネルギーを確保するという意味でも、環境への適合は死活問題です。

なので、進化とは力を得たり手足が増えることではなく、用意された環境のなかでいかに生きやすい生態へと変わっていけるかを指し示します。
その意味で言えば、手足が増えるどころかむしろ無くなった方が環境に適合しやすければ、手足がない形へ肉体が変貌することこそ進化といえます。ポケモンのように見てくれが派手になれば進化というわけではないのです。

進化論という考え方

一見すると不可思議な形状でも、環境に的することで生存率が上がるとう不可思議。

深海の生物や、地上でも劣悪な環境に生息している生物が歪なルックなのはこのことが大きく関係してきます。
生物は見た目だけではなく、行動や中身など多様性があります。それこそ水の中に生きる生物と地上で生きる生物では見た目も構造もぜんぜんちがうのは、環境への適合の仕方がそれぞれ異なるから。

環境に応じて様々な生き方をしているが、長い時間をかけて変化してきたと考えられている、この考え方を進化論といいます。
進化論は古代から提唱されてきた考え方ですが、特に有名なのはダーウィンです。聞き覚えのある方も多いのではないでしょうか。

ダーウィンとは

チャールズ・ロバート・ダーウィン。進化論の提唱者として著名な彼は、1809年2月12日にイングランドのシュルーズベリートという町で生まれた自然科学者です。兄弟は多く、6人兄弟の5番目の子供でした。

なかなか子沢山で育児に苦労した、なんてことはなく、父親は医師で投資家という裕福の象徴のような職業をマルチにこなしていたため、ダーウィンが科学者として育つ土壌は十分だったのでしょう。
親は選べないが親に恵まれたらこの上なき。

小さい頃から植物や貝殻、好物の採集を好み、将来地質学や生物学の道へ進むきっかけは幼少の頃から垣間見ることができます。子供の頃から人生のテーマが決まっていたとでもいえるでしょうか。

秀才でもあり、父親の医業を援助するために、16歳の時にはエディンバラ大学で地質学に加えて医学も学んでいました。裕福な家庭に生まれた上に賢いなんて素晴らしきスタートダッシュですね。
にもかかわらず中退してダーウィンが強く関心を抱いていた自然観察や化学を学ぶ道に突っ走ることになります。裕福で秀才な上に自由奔放…天才なのか、変人なのか、そのどちらもなのか?

とにかく、自らの熱意に素直だったのが進化論提唱にもつながっているのかもしれません。人とは異なる発想をするには自身の感情に忠実であることは前提条件ですからね。
ケンブリッジ大学に進学したダーウィンに、後の進化論発表に通じる大きな出会いが訪れます。地質学者のアダム・セジウィックと、植物学者のジョン・スティーヴンス・ヘンズローと親しく交流を重ねていき、自然科学の知見を深めていくことに。

ダーウィンと進化論

ダーウィンは1831年にケンブリッジ大学を卒業後、ヘンズローの紹介でイギリス海軍の測量船・ビーグル号に乗船することになります。そこでかの有名な不思議生物ランド、ガラパゴス諸島のチャタム島に滞在することに。自然科学への知見と好奇心旺盛なダーウィンにとって宝島みたいなものですね。そして彼はあることに気づきます。

島のあちこちにゾウガメの変種がたくさんいたのです。これがきっかけで、ダーウィンは5年にわっって航海と調査を行い、1859年に「種の起源」を書き著します。このなかで、ダーウィンの進化論について論じられています。下記がそれぞれの内容です。

(1)種内の個体はその形態と生理に著しい連続的変異があり、
(2)この変異は機会的に生じ、遺伝する。
(3)動物や植物の個体群は非常に高い増殖能力をもつ。
(4)しかし資源は限られており、ある個体群の個体は自らの生存とその子孫の生存を目ざして闘争しなければならない。
(5)したがって、いくつかの個体(最適者)だけが生き残り、同じ性質をもった子孫を残す。
(6)この最適者の自然選択(淘汰)を通して、種はよりよく適応した個体によって構成されるようになる。
 


少し難解な説明になっていますが、要約すると「地球上にはさまざまな種や生物が存在していて、生存を続けるために進化する」ということです。
つまり生存のためには進化という変化は必須であると著書で明記されました。

ダーウィン以前、ダーウィン以後の進化論

偉大な発見のようにも思えますが、進化論はなにもダーウィンが初めてではありません。進化についての考え方は古くから存在しました。しかし、ダーウィンの進化論が有名なのは、ダーウィン以前の進化論とダーウィンの進化論では決定的な違いがあるからです。

その違いとは、「生物の進化に目的があるのか、進化が単なる結果か」ということです。
ダーウィン以前の進化論では、目的があって進化していると考えられていました。先人の進化論で有名なのは、18世紀から19世紀に活躍したフランスのジャン=バティスト・ラマルクの提唱した説です。
彼の考え方は「用不要説」といわれています。これは名前がその説を表しているのですが、「よく使う器官は発達していくが、使わない器官は衰える」という考え方。

しかし、この説は現在では主流ではありません。この考え方に則って生物の変化を検証した場合、ある疑問が残るからです。
一見すると自然な考え方のようにも思えるラマルクの進化論。ラマルク流に考えると、生物は環境に自然と適合しながら、より環境に適するために姿形を変化させ、環境に順応しながら生命を育んできたことになります。

とはいえ現実は厳しいものです。こんなにすんなり進化が便利であれば様々な種が現在でも存続していたことでしょう。
それはどういうことか?

キリンの首はなぜ伸びた?

進化論を考える上である例え話を出しましょう。

「キリンの首がなぜ伸びたのか?」

ラマルク流に考えれば、こうなります。元々背丈の低かった木の草を食するには、大して首の長さは必要ありません。ですが、年月とともに伸びた木々の枝葉を食すためには、必然的に首を伸ばす必要がありました。だからキリンの首は伸びました、というのがラマルクの進化論に則った考え方です。

一見すると自然、しかしある点で不自然なのがこの進化論の考え方です。
これで考えると、親の獲得した形質が子供に遺伝する必要があります。どういうことかというと、たとえば人間でいえば、親が整形しても、子供には整形の面影が遺伝されなければならないのです。そんなとんでもないことはもちろんですが起こりませんよね?

そんなとんでもないことが起こりうるのが、ラマルクの進化論の考え方、ということになってしまうのです。つまり、キリンが木の葉っぱを食べるために首を長く伸ばしたとして、そのまま子供に遺伝するかが疑問が残ります。
事実、遺伝子の研究が進んだ現在では、親の獲得した形質は子供に遺伝しないことが判明しています。

ラマルクの提唱した説に対して、ダーリン流の進化論はこうなります。

「生物の進化に目的はなく、ただの結果にすぎない」

進化に目的などなく、ただの結果に過ぎないとは?

進化に目的なんてものはない、ただの結果に過ぎない。なかなかドライな考え方ですね。嫌いではありません。
自然とはナチュラルゆえに残酷、ゆえに美しい。手の加わっていない世界はそれだけ優しさも憎しみもなく、ありのままゆえに酷であり、ゆえに循環する。

話が逸れましたが、目的がなく結果的に進化できたというのは、キリンの首の例えでいうとこう説明できます。
「キリンの首が伸びたのは突然変異」です。

つまり、遺伝子のミスともいえる異常現象がたまたま環境と適応して、首の長いキリンの方が生き残りやすかったのです。これはかなり面白い!

言わば異常者が正常者を超えるユニーク。異端であり本来ならば淘汰される異常が、まさかの環境変化に適合したという事実。

環境は常に変化するものです。つまり生物そのものに変化がなければ、当然ですが生命維持に支障をきたすこととなります。

ということは、異常をきたさなかった首の短いキリンは結果的に不利になり、環境に適応できなくて死滅してしあったのです。
突然変異がたまたま環境に適したから、それで生き残った親の遺伝子が子供に受け継がれたのが首の長いキリンということですね。

たまたま変化したらたまたま環境と適合できたのが進化

このように、ダーウィンの進化論で言えば、環境に適応して進化していったのではなく、たまたま生まれたときに持ってた形質が環境に合っていたから生き残ったということになると説明しました。

つまり生物が自ら環境のために進化を繰り返すのではなく、環境によって進化の方向性が勝手に決まっていったということです。生物にとって環境というのが大前提だということは、進化一つをとっても不変であり不動である。

諸行無常の世界において、システムだけは決定されているのが、リアルでもバーチャルでも共通であるというのは興味深いです。
環境ありきで生物が存在する。生物が環境を上回ることができない。
突然変異の極みともいえる、人類を除いて。

現代人による、名言の誤用

ダーウィンの進化論を引用して「生き残れるのは変化できる者だ」と意識高い系の講演会や会社で演説されることがあります。高みを目指すあまり身近には存在してほしくない方々のこの発言は、そういった方々に好まれるのは理解できます。
が、これは誤用です。

たしかに進化とは、結果的には変化していますが、さっきも言ったようにそれはあくまで結果論です。生物が生き残ったのは、たまたま突然変異によって持って生まれたものが環境に適応したゆえ。
説明したとおり、「環境に適応するという目的」のために変化、つまり進化したけではありません。
環境へ適応するためではなく、たまたま持って生まれた才能が環境に合ってただけ、というのがダーウィンの進化論です。ダーウィンからすれば曲解されて意識高い系セミナーで引用されているのはいい迷惑なような気がします。
自然淘汰、自然界の生き残り、進化の選択。

言わば進化は望まれて行われず、異常者が環境適合により生存率を高めるのです。
異常が正常を凌駕し、正常と異常が逆転する。
進化とは偶然の産物であり、偶然が環境と合致した時、異常者はだれよりも生物として正常者となる。
自身で環境すらも操作できる異常極まりない生物として進化した人類であれば、たしかに自身によって環境へ適応するために変化し続け、生存率を上げることはできるかもしれません。

その意味では変化し続けられる者は生存確率の高い存在でしょう。
ですが、ダーウィンの提唱する生物界は、そんなあれこれの雑念など混じっておらず、ただ純粋に生きた結果が生存をと死滅を決めるだけだと言っています。
ただ在りのままに、在りのままに消えゆく。

自然とは意識がどうだ考えがどうだとかいうそんなもんは存在しないからこそ自然なのです。たとえ生き死にがかかっていようと。
手を加えない存りのままというのは美しいけれど残酷なもの。美しいとは、優しいと同義ではありませんから。

優しくもなく時に残酷ゆえに自然は美しい。そう思いますよ。

この記事を書いた人

MIYAMOTO

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